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Career職場情報誌 281期:丁春誠

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≪Career 職場情報誌≫
2016/08/10 第281期
封面故事:丁春誠  Long Interview
撰文◎大倉良一

=價值,是生命中最重要的事情!=
価値とは生きてる上で最も重要な事

北京の三環地区に入ると、1箇所あまり目立たないビルがあり、室内のインテリアも少なく、全てがシンプル。窓の外は秋になり黄色く色づいた木々が広がり、彼は周囲を見てすぐさまここが*「北漂」の落ち着くところと決めた。
※北漂・・・北京に北京以外の都市から勉強しに来た学生のこと

北京での2年の生活は*「タンタンの冒険」みたいなもので、苦しみつきて楽あり。振り返ってみると「お坊ちゃん、ファッションF4」というおかしな代名詞があった丁春誠が,イメージを覆す方法はこれだったのだ。彼は荷物もコンパクトにまとめて、住み始めた。
※ 苗字の”丁”とタンタンをかけている

自分に「生活しにきた、生活を見せるんじゃない。費用もコントロールすること」と言い聞かせた。北京に来て3日20件以上の部屋をみて最後にここに決めた。ここから北京での2年少しの映画の勉強、脚本を書き始める新しい生活が始まった。
彼は丁春誠。

毅然放下光環 支身闖盪北京
きらびやかな人生を捨て、北京で生活する

丁春誠は「ファッションF4」の名前で芸能界入りした。彼の父親は台湾で最大手の壁紙会社社長の丁三光。メディアは彼に「高身長、イケメン、お金持ち」という代名詞をつけて、「人生勝ち組」を強調し芸能界に参戦してきた。彼は何作かドラマも出演したが、彼にとって目の前の全てがまるで不確かなものでしかなく、好きじゃないし無駄な時間を続けたくなかった。
きっぱりきらびやかさを捨て、単身北京で学業に勤しむことに決めた。
29歳のあの年、彼の人生のターニングポイントだった
「僕は20歳のころ色んな国に行って、自分の視野を広げた。30歳の時は僕は一つのことに集中してやりたい、40歳の時は環境問題に打ち込みたいと。」信念は周り回って、目の前の華やかさを断ち、北京で映画に関係する生活を選んだ。

丁春誠は「実は僕は学校に申請を出す1回目のチャンスを逃していて、2回目を逃すことはできなかった」と語った。彼は以前は人生は成り行きに任せいけばいいと考えていた。でもデビュー10年の経歴の中で「人生は一種の使命感を修練する」ようなことがなく、この考えの元、彼は環境を変えられたくはなかったので、自分が変わることを選んだ。

 考え方は年齢とともにどんどん増していき、成熟したところで即行動に移した。

彼は笑いながらこう語った。自分が北京で脚本の勉強したいと考えていることを両親に話した時、母は「あなた子供のころ国語の短文も書けなかったのに、どうやって脚本書くの?」ちょうど麺を食べてた父は聞き終わると、麺が喉に詰まりそうになってました。両親はとても驚き、彼がどうやってできないことを挑戦するのか?ただ負けず嫌いな丁春誠は、スポットライトの当たる道を進まないと決め「人生には叶えたい夢や希望が溜まっていく」、単身北京に乗りこんで、ゼロからの開始だった。

機上巧遇李屏賓 種下夢想種子
飛行機で李屏賓に偶然出会い、夢の種が芽生えた

2年前の9月14日北京行きの飛行機で偶然にも偉大なカメラマン李屏賓に出会った。丁春誠はちょうど李屏賓の本を持っていた。機内では李先生と歓談しにいけなく、飛行機がもうすぐ到着する段階で、丁春誠は李先生の本も持っているし、奇しくも同じ飛行機なんだから、この機会を逃すことはできない。降りる手前で自分で「僕は先生の作品が好きです。僕は今回北京で撮影の勉強しに来ました」と言い、李先生は丁春誠の話を親身になって聞き、二人はイミグレーションで40分も話し込んだ。李先生と偶然に出会い、丁春誠は「希望の種の一つ」と考え、「映画を作る人は希望があり、どんな映画を作るかにかかわらず、全て本当で、適当な気持ちはない」と自分で考えていた。

 丁春誠の北京留学は李先生の偶然の出会いから始まったが、苦労するスタート地点でもあった。

自転車でいろんなところに部屋を見に行き、毎朝6時過ぎにラッシュの地下鉄へ、背が高い丁春誠でも歩けないほどの混み具合。生活は規律正しくなり、台北の便利で活動的ではないけれども、自分に「北京で何をするんだ?」と自分を励ました。外からの邪魔は少なくなり、自分を冷静に見据えて、今の自分、未来の自分はどうなんだと考えられるようになった。これらは日常の生活の細々としたところから見えた。
※《花様年華》《聶隱娘》などの侯孝賢や王家衛作品に参加の撮影監督。

融入當地文化 激發強悍鬥志
地の文化に入り込み、勇猛な闘志を奮い立たす

北京電影學院で学ぶ丁春誠、よくいた場所は校内のカフェ、そこで人間観察をしていわゆる「北京人文」を理解する前哨戦となった。「僕は外から来た人だけど、彼らの文化を理解しなければならない。」目の前の形や色が彼は納得がいかない、慣れない、さらには理解できない「最初は慣れなかったけど、半年の月日をかけて、やっと慣れてわかるようになった」今は詳しくなり映画の学術的なバックボーンにある人の気品や写実的な暮らしが丁春誠の感情を抑制させた。学びは丁春誠に様々なことをわからせた、広い視野で見て、脚本を書くことは彼にとって、超難関への挑戦。

彼はシナリオ学科じゃなければ、脚本は書かないんじゃないかと疑問に思っていた。彼はただ毎日いろんなニュースを見て勉強した。先輩たちの脚本を見てあれこれ推測した。脚本を教授に提出したとき、教授はあっさり一言「初めて書いた脚本では上出来だと」これを聞いた丁春誠は心は血が滴ったが、彼の闘志に火をつけた。文化的なことと商業的なものが融合できないかよく考え、書き直した。

頑張って勉強した2年で脚本は完成した。この秋に撮影開始する。彼は嬉しそうに「僕の脚本を※夏永康監督に送ったら、彼は即返事をくれ、この脚本が好きだと北京で詳しいこと話し合った。」語った。
認められたことが丁春誠の心に響き、「楽なことを犠牲にして、ある日僕は気制作にもっと舵を切らないといけないと気付いた。
※《ブエノスアイレス》《花様年華》でスチール写真撮影及びデザインを担当した有名カメラマン、監督。

傲骨愈挫愈勇 沒讓父親失望
気骨のある性格は挫折するごとに勇敢になり、父親を失望させない

丁春誠は芸能界の華やかさを捨て、家族の会社を継ぐ準備もしないで、ゼロから始めた。彼はこの一歩を踏み出すことは、絶対大変だとわかっている。「家族と全く関係ないことをしている、頼れるのは自分だけ」と。気骨さは彼を挫折するごとに勇敢にしていった。父親はやめたほうがいいと勧めたが、最後は尊重してくれ、両親は応援をしてくれた。これが大きな原動力に。家族の間ではお互い学び、許すことが家族の絆をもっと強固にする。

北京で頑張っているとき、父親が仕事で北京に来た。親子で食事をし、丁春誠は苦しんでることを言わなかった、逆に父親に今の進度を意気揚々と語り、映画撮影のスケジュールを準備している。父と子の間の距離は、仕事的な関わりがないと遠くなったが、逆に近くなった。父親がうなづいたときの目の光を見て「僕は父親を失望させてない」と丁春誠はわかった。

電影即將開拍 持續和自己賽跑
間もなく映画の撮影は開始、自己との戦い

丁春誠が脚本、監督、主演する映画の撮影はもうすぐ始まる。彼はずっと「Do my best,never give up」座右の銘としている。もう始まっていて、歩みは止められない、もしくは途中で止まってしまったときは、トライアスロンの精神を以って、一つ作りまた一つ、己と己の戦い「僕はかつて自分に問いただした、30歳は何をするのか?脚本を書き上げ、その脚本自分が撮影することが僕の夢。夢に向かって進むのは、一種の満足感が得られると」

快適なところから離れ、価値観を探す
丁春誠は裕福で快適な暮らしを離れ、誰も知り合いのいない北京で新しい生活を始めた。彼は今までのことを振り返り、自分は子供の頃から大きくなるまで気楽だったなと、自分の性格値相反すると。2年前「北漂」になったことを思い出し、バイクや財産を売り、父親は事情を知った後も疑り、「僕が北京に行くとは思いもよらなかった、もっと心配だったのは、僕の性格上北京で暴走しちゃうんじゃないかと」

2年経って、彼は夢を現実のものとし、過程は苦労して、一人は孤独だったけど、彼が身をもってシナリオの素材を提供して、彼はこの道のりが夢のようで、「丁丁のクレージージャーニー」という面白いネーミングをつけた。
それは苦労した後にこの話をしていて気持ちもリラックスして、これは丁春誠が「お坊ちゃん、ファッションF4」と実態のない代名詞からの脱却の方法だ。

「価値とは、生きている上で重要なこと」丁春誠は自分にもし人が偉大な夢を抱いているなら、価値はもっと伝播される、世代が違えば要望も層の違う価値観がある。丁春誠は一歩一歩実践している

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